このインタビューの前日(7月半ば)に突然、体調を崩しまして、たぶん熱もあってひどい顔でした。妻には「写真撮影は絶対延期!」と厳命されていたのですが、「インタビューの約束もしたし」と考えていました。でも、明け方3時に「もうだめ」という感じで、インタビューする記者にメールを出したのですが、それが届かず、とにかく、あきらめて会って撮影した次第です。
ま、そう考えれば「ひどい」のですが、幸か不幸か、写真は「落ち着いた」人間に見えるから不思議です。
まず、イチローなんですが、1番右翼で出場し、4打数2安打でした。最初(1回表)の遊ゴロは、まったく力がなくて、これだけ見れば、今年の調子の悪さと結びつけられそうなんですが、4回の第2打席は外角低めのスライダーを左前に流し打って安打でした。これも流した感じなので、アスレチックスの先発マッカーシ−のボールを「引っ張り切れてない」と言う評論家もいるかもしれないと思いました。6回の第3打席は空振り三振で、これも不振に結びつけられそうなんですが、でも、もしかしたら待っていた球種とは違っていたのかもしれません。ここまではアスレチックスの先発のマッカーシーとの対戦でした。 今年の成績と結びつけられたり、オールスター落選も結びつけられそうなんですが、これまで見てきたイチローとそんなに違うようにも見えませんでした。最後の打席は8回表に回ってきましたが、ここはブレスローとの対戦で、右安打でした。やはり先発投手と2番手以降の投手とではボールの勢いに差があるのか、キレイに引っ張っているように見えました。
さて、ゴジラ松井は2回の第1打席で、相手先発ピネダの147キロの内角直球をライナーで、イチローの前、右前にはじき返して出塁すると、次打者の4球で2進。2死後、カート・スズキの左前打で先制のホームを踏みました(これでイチローの闘争心に火がついたと見るのは穿った見方でしょうか)。2塁からの走塁は良かったです。でも、このあとは左飛、一ゴロとヒットが出ず、9回1死1塁では相手のクローザー、リーグの前に空振り三振を喫してしまいました。前列に座っていたアメリカ人のうるさいおっさんが「ヒデキ、日米通算500!」と叫んでいましたが、残念でした。
結局、イチローは2試合連続の2安打でマリナーズが2―1で競り勝ちました。イチローのヒットは試合には関係なく出ていた感じでした。方や、4番指名打者で出場したアスレチックスの松井は二回に右前打を放って先制のホームを踏み、4打数1安打でした。4試合連続安打で、アスレチックスの得点この1点のみなので、貢献度は高いとも言えるのではないでしょうか。ライトのKomatsuの宣伝、レフトのSharpの宣伝は目につきましたが、くら寿司の宣伝は、観戦していた座席からは見えませんでした。ところで、マリナーズのケネディは、すくなくとも3度はフライを見失っていましたが、それほどすごくよいお天気でした。


長い間メジャーリーグを見てきましたが、こんなこともあるのですね。SFジャイアンツは確かに投手陣はかなりハイレベルですが、打線ははっきり言って2流です。今年デビューの新人やよそを解雇になったような人たちでとりあえず組んでいるような打線ですからね。それでもワールドシリーズまで進んで、しかも2連勝!ただキャッチャーのバスター・ポージーは確かにいい選手ですね。サンフランシスコの街は盛り上がっているのでしょうか。サンフランシスコの人たちもまさか今 年ワールドシリーズが見れるとは思っていなかったでしょうね。

通算354勝にして史上最多の7度のサイヤング賞を獲得し、Rod Sox、Blue Jays、Yankees、Astosで活躍したロジャー・クレメンスが、米連邦大陪審から起訴されました。1997年からの薬物使用らしいのですが、1997年というのはクレメンスが、ボストンからトロントに移籍した年です。1996年頃というのは、クレメンスだけでなく、(その後、阪神に行ってすぐやめた)マイク・グリーンウエルやモー・ボーンと不平・不満分子がたくさんいて、まだ若かった当時のボストンのダン・デュケットGM(ゼネラルマネージャー)は、彼らの扱いに手を焼いていました。私は当時ボストンに住んでいましたので、そうした状況を今でも覚えています。デュケットは、10勝そこそこしか勝てなくなったクレメンスを評して「たそがれ時(twilight)」つまり「全盛期を過ぎた」と言っていました。
ボストンのマスコミは、それまでクレメンスが「出身地のテキサスに帰りたい」といっていましたので、FAでトロントに行ったときには「(カナダの)トロントがボストンよりテキサスに近いとは?」と揶揄していました。でも、クレメンスがトロントで活躍するたび、デュケットGMの発言は皮肉られることになり、「見る目がなかった」とマスコミからはバカにされていたように記憶しています。最終的にはデュケットの進退問題にまで発展したと思いますが、そうした活躍には裏があったとしたら皮肉です。
いずれにせよ、トロントでも、かつてのライバルでオークランドA'sの投手だったスチュアートが投手コーチになった途端に、移籍を要求したわけで、信じられないほどの大きなエゴとプライドの持ち主だったのではないでしょうか。
思い起こせば、私がボストンに到着したのは1987年の8月で、その年は前年ワールドシリーズにまで出場しメッツに最終戦で負けはしたものの最後までボストンを湧かせていたのでしょうね。1987年の8月17日は、夜遅くケンブリッジに到着しました。ローガン空港からタクシーで、ハッチシェルを横目に見ながらホテルに着いたのですが、テレビをつけたらたまたまスポーツニュースで、「ことしのレッドソックスはだめ」なんて言っていました。
翌年の初夏、初めてフェンウエイ・パークに試合を見に行きましたが、たしか対戦相手はブルージェイズだったと思いますが、ぼろぼろに負けました。その後、阪神に行ったセシル’フィールダーもいたはずですが、控えだったと思います。その時のレッドソックスの監督はジョン・マクナマラ(John McNamara)でしたが、その後すぐくびになり、ジョー・モーガン(Joe Morgan)が監督に昇格しました。この監督はすばらしい実績を残したと思いますが、どういうわけかくびになり、ブッチ・ホブソン(Butch Hobson)を監督に昇格させた1992年には、阪神が1985年に日本一になったときのピッチャーのリッチ・ゲールが投手コーチになりました。
クレメンスを実際に球場で見たのはその頃です。それまで何度もフェンウエイで試合を観ていましたが、クレメンスを見る機会がなかったんです。試合前にゲールとクレメンスが外野をランニングしていまして、クレメンスも大男のはずなのに、ゲールがとても背が高くて、遠くからでも身長差が歴然としていました。その後も、クレメンスが投げるのを見たことはありますが、それほどすばらしかったという記憶はありません。それよりも、何かの記念で、テッド・ウイリアムス(Ted Williams)が球場に来ていてスピーチをしたことがありましたが、やはり印象的でした。