2010年8月21日土曜日

ロジャー・クレメンスのこと

通算354勝にして史上最多の7度のサイヤング賞を獲得し、Rod Sox、Blue Jays、Yankees、Astosで活躍したロジャー・クレメンスが、米連邦大陪審から起訴されました。1997年からの薬物使用らしいのですが、1997年というのはクレメンスが、ボストンからトロントに移籍した年です。1996年頃というのは、クレメンスだけでなく、(その後、阪神に行ってすぐやめた)マイク・グリーンウエルやモー・ボーンと不平・不満分子がたくさんいて、まだ若かった当時のボストンのダン・デュケットGM(ゼネラルマネージャー)は、彼らの扱いに手を焼いていました。私は当時ボストンに住んでいましたので、そうした状況を今でも覚えています。デュケットは、10勝そこそこしか勝てなくなったクレメンスを評して「たそがれ時(twilight)」つまり「全盛期を過ぎた」と言っていました。

ボストンのマスコミは、それまでクレメンスが「出身地のテキサスに帰りたい」といっていましたので、FAでトロントに行ったときには「(カナダの)トロントがボストンよりテキサスに近いとは?」と揶揄していました。でも、クレメンスがトロントで活躍するたび、デュケットGMの発言は皮肉られることになり、「見る目がなかった」とマスコミからはバカにされていたように記憶しています。最終的にはデュケットの進退問題にまで発展したと思いますが、そうした活躍には裏があったとしたら皮肉です。

いずれにせよ、トロントでも、かつてのライバルでオークランドA'sの投手だったスチュアートが投手コーチになった途端に、移籍を要求したわけで、信じられないほどの大きなエゴとプライドの持ち主だったのではないでしょうか。

思い起こせば、私がボストンに到着したのは1987年の8月で、その年は前年ワールドシリーズにまで出場しメッツに最終戦で負けはしたものの最後までボストンを湧かせていたのでしょうね。1987年の8月17日は、夜遅くケンブリッジに到着しました。ローガン空港からタクシーで、ハッチシェルを横目に見ながらホテルに着いたのですが、テレビをつけたらたまたまスポーツニュースで、「ことしのレッドソックスはだめ」なんて言っていました。

翌年の初夏、初めてフェンウエイ・パークに試合を見に行きましたが、たしか対戦相手はブルージェイズだったと思いますが、ぼろぼろに負けました。その後、阪神に行ったセシル’フィールダーもいたはずですが、控えだったと思います。その時のレッドソックスの監督はジョン・マクナマラ(John McNamara)でしたが、その後すぐくびになり、
ジョー・モーガン(Joe Morgan)が監督に昇格しました。この監督はすばらしい実績を残したと思いますが、どういうわけかくびになり、ブッチ・ホブソン(Butch Hobson)を監督に昇格させた1992年には、阪神が1985年に日本一になったときのピッチャーのリッチ・ゲールが投手コーチになりました。

クレメンスを実際に球場で見たのはその頃です。それまで何度もフェンウエイで試合を観ていましたが、クレメンスを見る機会がなかったんです。試合前にゲールとクレメンスが外野をランニングしていまして、クレメンスも大男のはずなのに、ゲールがとても背が高くて、遠くからでも身長差が歴然としていました。その後も、クレメンスが投げるのを見たことはありますが、それほどすばらしかったという記憶はありません。それよりも、何かの記念で、テッド・ウイリアムス(Ted Williams)が球場に来ていてスピーチをしたことがありましたが、やはり印象的でした。

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