2010年11月3日水曜日

ジャイアンツ、56年ぶりワールドシリーズ制覇!


サンフランシスコ・ジャイアンツがワールドシリーズを56年ぶりに制覇しました。1958年にニューヨークからサンフランシスコに移ってからは、初めてです!

圧勝でした!見事でした!投手陣は前評判通りすごい。打線は予想外にすごい。誰が3番打者で、誰が4番打者なのかがわからないくらい、どこからでも打ってくる。本当にすごい!信じられないくらいすごい!投打のバランスが噛み合わないと、やはり、ワールドシリーズを制覇するのは至難の技です!

昨日は大学院のゼミがあって、「ジャイアンツは、どうなんでしょうね?」なんて言いながら、クラスをやっていたんですが、
7時にクラスを終えて、オフィスに戻ってインターネットで見ると、ジャイアンツがリードしていることはわかりました。はやる心をぐっと抑えながら、自宅まで車を運転して、シャッターを開けたところなんか外で爆竹の音がしたような気がして、あわてて階段を駆け上がり、テレビをつけたら、グランドで選手がみんな抱き合っているところでした。たぶん10秒くらい遅れたんでしょうね。「くやしい!」その後も、外では爆竹、歓声が聞こえていました。

昨日、日曜日は、「ワールドシリーズの記念になるものを何か買おうかな」と思い、ジャイアンツ・ショップに行ったんですが、行列なんです!で、そういう瞬間に限って、読売ジャイアンツのイメージがだぶってきて、並ぶのをやめました。サンフランシスコ・ジャイアンツと読売ジャイアンツは無関係なんですけど。


でも、妻が熱心に応援していて、私も引きずられて応援した今年のワールドシリーズでした。去年もヤンキースの応援はしたくなかったけれど、松井の活躍、特にペドロ・マルチネスから打ったホームランは技術+パワーで感動しましたし、今年はスーパースターのいないジャイアンツの選手たちが、所狭しと活躍するのは感動でした。


また、日本の友人からのメールです。


ジャイアンツ、ワールドシリーズ優勝おめでとうございます。ボストン・ファンの南先生はあまりジャイアンツはあまり応援してはいなかったのでしょうか。やはり東京ジャイアンツのイメージがだぶるので好きにはなれないのでしょうか。でもまさかジャイアンツが優勝するとはね~。まだまだ発展途上のチームだと思ったのですがね~。いまだにリプケンのイメージが払拭しきれないオリオールズとかに比べたら、ボンズのチームからの立ち直りが意外と早かったような印象がしております。
2002年ワールドシリーズに出た時のジャイアンツにはボンズと、そして新庄もいたのですよね。来年はサンフランシスコでぜひリンスカムを見たいものです。

2010年10月29日金曜日

ワールドシリーズ前夜祭と初戦と第2戦


ワールドシリーズがサンフランシスコで始まりました!

初戦はサンフランシスコ・ジャイアンツが取りました!オフィスで経過を見ていたときは
2-0で負けていて、自宅に帰って、郵便物の点検などをしてから、おもむろにテレビをつけると5回の裏の猛攻、ウリベの3点本塁打の直後で、なんと2-7になっているではありませんか!「1分早くテレビをつければ良かった」とちょっと後悔しました。第2戦もサンフランシスコ・ジャイアンツが勝ちました。ジャイアンツのオレンジカラーが入ったトレーナーを着ている人を今朝も2人見かけました。

ワールドシリーズの前夜10時頃、何か外でバーンという音が何度もして、「だれか、人が騒いでいるのかなあ?」と思って自宅の窓から外を見たら、花火が上がっているではないですか。時々、個人で大きな花火を打ち上げる人がいるんですが、「それにしてもこれは素人が打ち上げる花火ではないなあ」と思いながら、眺めていて、「これはもしかしたら」と思い、テレビでニュースを見ましたらゴールデンゲートパークの中にカリフォルニア・アカデミー・オブ・サイエンス(California Academy of Sciences)という自然博物館があるのですが、そこでワールドシリーズの前夜祭をしていたんです。

ジャイアンツ
Tシャツがよく売れているらしいんですが、これもニュースで「原価1ドル50セントのものを25ドルで売ってる」なんて聞くと、ちょっと興ざめかもしれません。

以前、書きましたが、私はジャイアンツに複雑な感情を抱いているようで、もう
10年以上前になりますが、初めて、その当時の本拠地キャンドルスティック・パークにシカゴ・カブスとサンフランシスコ・ジャイアンツの試合を見に行った時、どうしても「がんばれジャイアンツ」と言えませんでした(ちなみに、そのときジャイアンツの主力選手だったバリー・ボンズやカブスの選手だったサミー・ソーサを初めて見ました)。これも、もうひとつのジャイアンツのせいなんです。それにしても太平洋の反対側のもうひとつのジャイアンツがお金に任せて選手を集めているのに、サンフランシスコ・ジャイアンツはあまりお金をかけていないので、これまでパッとしませんでした。でも、今年は、どういうわけか、頑張っています。今年に限って言えば、同じオレンジカラーでも、太平洋の西側の(本家から名前とユニホームを拝借した)ジャイアンツは日本シリーズに行けず、太平洋の東側の(本家)ジャイアンツはワールドシリーズに駒を進めて、一番になれるかもしれません。

私の友人によれば、

長い間メジャーリーグを見てきましたが、こんなこともあるのですね。SFジャイアンツは確かに投手陣はかなりハイレベルですが、打線ははっきり言って2流です。今年デビューの新人やよそを解雇になったような人たちでとりあえず組んでいるような打線ですからね。それでもワールドシリーズまで進んで、しかも2連勝!ただキャッチャーのバスター・ポージーは確かにいい選手ですね。サンフランシスコの街は盛り上がっているのでしょうか。サンフランシスコの人たちもまさか今 年ワールドシリーズが見れるとは思っていなかったでしょうね。


2010年10月8日金曜日

ラスク rusk(焼き菓子)


最近と言いますか、今年の夏はGodivaにハマってしまいました。特にチョコレートアイスクリームという今年の夏の新作をかなり買いこんでしまいました。あまりにおいしかったので、これまで仕事関係でお世話になった日本の方々にお送りしました。本当は夏の間に送りたかったのですが、例年にない日本の暑さでとけてしまったら大変と涼しくなるのを待っていました。Godivaをさしあげると、必ず「おいしかったです」と言っていただけるので、満足して、「そりゃあ、もちろんそうです。Godivaですから」とお応えしています(笑い)。

私の友人の群馬県在住の三味線の師匠の松本梅しょうさんから、わざわざラスクを送っていただきまして、とてもおいしいのでたいせつに、たいせつに食べていました。先日、妻と一袋ずつ開けて食べながら、妻はテレビを見、私は少し古い朝日新聞の雑誌『アエラ』8月30日号を読んでいました。そこで、まったくの偶然なのですが、『菓子業界総ラスク化」という記事を見つけまして、いただいたラスクを食べながら読んでいますと、

(ブームに)「火をつけたのは、群馬県の洋菓子店『ガトーフェスタ・ハラダ』のラスク。薄く切ったフランスパンをサクサクに焼いたラスクは、お取り寄せブームで全国区になり、今や東京のデパ地下でも行列ができるショップといえばココに。フランス国旗をデザインしたあのパッケージを差し出せば、『わざわざ並んで、買ったのよ』感を主張できる、勝負手みやげとしても人気が高い。」

とあるではありませんか!おもわず、食べていたラスクを眺め、パーッケージをまじまじ眺めてしまいました。梅しょうさん、ありがとうございました!!!妻と「これからは、もっと、もっと、もっとたいせつに食べよう」と話しました。

繰り返しになりますが、ラスク、心を入れて、心を込めていただきます!!

2010年8月25日水曜日

マイケル・アマコストとマッシー・ムラカミのこと

8月23日の夜、『咸臨丸150周年記念事業』の一環としての日系人グラスルーツ・サミットということで、急遽、在サンフランシスコ日本国総領事館の総領事公邸に呼ばれまして、そこで元駐日大使のマイケル・アマコスト氏と再会しました。アマコスト氏は1989年から1993年まで在日本アメリカ合衆国特命全権大使だった人です。以前、総領事公邸でアマコスト氏にお会いしたことがあるのですが、そのときは着席パーティーで横に座ることになりまして、前日から詰め込んであった知識もさほど役にはたたず、かなり緊張しました。今回は2度目ということもあり、前回のような緊張感はなく、わりとリラックスしてまるで旧知の間柄のような態度で話しかけたら気さくに対応してくれました。

感激だったのは、アメリカのメジャーリーグ日本人選手のパイオニアで、サンフランシスコ・ジャイアンツのピッチャーだった村上雅則氏(マッシー・ムラカミ)がいらっしゃっていて、お話しできたことです。メジャーリーグのパイオニアと言えば野茂英雄と思いがちなのですが、村上氏は1964年頃に当時の南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーのフレズノに野球留学していて、メジャーリ−グに初めて昇格した人です。当時、私は小学生で記憶が定かではないかもしれないのですが、その後、南海ホークスが「帰国するように」と命じたことからゴタゴタもあったようです。
そうしたことが、当時の新聞などで報道されていたのですが、その村上氏に会ってお話しできたものですから感激でした。私が一方的にしゃべってはいましたが、それを丁寧に聞いてくださり、私の素人丸出しの質問にもちゃんと答えてくださいました。

実は、私もハーバード大学の大学院に入学した際の最初のセミナーで、自分の名前を「マッシー・ミナミ」と書いたのですが、そのセミナーの教官で、後に私のアドバイザーになった人が、以前から私の名前を知っていたようで、マサヒコと呼んだのです。もしそのとき私が「マッシー・ミナミ」になっていたら、その後の私の著作、少なくとも英語の著作はMsahiko MinamiではなくMashi Minamiになっていたかもしれません。

If I had been called "Mashi" by that influential professor at that time, my books, at least English ones, might have been published with the name of "Mashi Minami" instead of "Masahiko Minami."

2010年8月21日土曜日

ロジャー・クレメンスのこと

通算354勝にして史上最多の7度のサイヤング賞を獲得し、Rod Sox、Blue Jays、Yankees、Astosで活躍したロジャー・クレメンスが、米連邦大陪審から起訴されました。1997年からの薬物使用らしいのですが、1997年というのはクレメンスが、ボストンからトロントに移籍した年です。1996年頃というのは、クレメンスだけでなく、(その後、阪神に行ってすぐやめた)マイク・グリーンウエルやモー・ボーンと不平・不満分子がたくさんいて、まだ若かった当時のボストンのダン・デュケットGM(ゼネラルマネージャー)は、彼らの扱いに手を焼いていました。私は当時ボストンに住んでいましたので、そうした状況を今でも覚えています。デュケットは、10勝そこそこしか勝てなくなったクレメンスを評して「たそがれ時(twilight)」つまり「全盛期を過ぎた」と言っていました。

ボストンのマスコミは、それまでクレメンスが「出身地のテキサスに帰りたい」といっていましたので、FAでトロントに行ったときには「(カナダの)トロントがボストンよりテキサスに近いとは?」と揶揄していました。でも、クレメンスがトロントで活躍するたび、デュケットGMの発言は皮肉られることになり、「見る目がなかった」とマスコミからはバカにされていたように記憶しています。最終的にはデュケットの進退問題にまで発展したと思いますが、そうした活躍には裏があったとしたら皮肉です。

いずれにせよ、トロントでも、かつてのライバルでオークランドA'sの投手だったスチュアートが投手コーチになった途端に、移籍を要求したわけで、信じられないほどの大きなエゴとプライドの持ち主だったのではないでしょうか。

思い起こせば、私がボストンに到着したのは1987年の8月で、その年は前年ワールドシリーズにまで出場しメッツに最終戦で負けはしたものの最後までボストンを湧かせていたのでしょうね。1987年の8月17日は、夜遅くケンブリッジに到着しました。ローガン空港からタクシーで、ハッチシェルを横目に見ながらホテルに着いたのですが、テレビをつけたらたまたまスポーツニュースで、「ことしのレッドソックスはだめ」なんて言っていました。

翌年の初夏、初めてフェンウエイ・パークに試合を見に行きましたが、たしか対戦相手はブルージェイズだったと思いますが、ぼろぼろに負けました。その後、阪神に行ったセシル’フィールダーもいたはずですが、控えだったと思います。その時のレッドソックスの監督はジョン・マクナマラ(John McNamara)でしたが、その後すぐくびになり、
ジョー・モーガン(Joe Morgan)が監督に昇格しました。この監督はすばらしい実績を残したと思いますが、どういうわけかくびになり、ブッチ・ホブソン(Butch Hobson)を監督に昇格させた1992年には、阪神が1985年に日本一になったときのピッチャーのリッチ・ゲールが投手コーチになりました。

クレメンスを実際に球場で見たのはその頃です。それまで何度もフェンウエイで試合を観ていましたが、クレメンスを見る機会がなかったんです。試合前にゲールとクレメンスが外野をランニングしていまして、クレメンスも大男のはずなのに、ゲールがとても背が高くて、遠くからでも身長差が歴然としていました。その後も、クレメンスが投げるのを見たことはありますが、それほどすばらしかったという記憶はありません。それよりも、何かの記念で、テッド・ウイリアムス(Ted Williams)が球場に来ていてスピーチをしたことがありましたが、やはり印象的でした。

2010年7月27日火曜日

森毅先生のこと

2010年7月24日に森毅先生がお亡くなりになったとのこと、お悔やみ申し上げます。私は京都大学経済学部卒業なのですが、教養部の時に森先生のクラスを取りました。「京大時代は名物教授の一人として人気を博した」というのが一般的な解釈なのでしょうし、まったくその通りだったと思います。

教養部の1回生、もしかしたら2回生のときも(関西では1回生、2回生と数えていました)、数理解析研究所の教授だった一松信先生からも解析学、函数論を学びました。偏微分はまだなんとかこなしましたが、ベクトル解析はよくわかりませんでした。すみません。

対照的に、森先生から何を学んだのか、それほどの記憶がないんです。一松先生の授業にはまじめに出席していましたし、まじめに出席していても理解できないのに、欠席でもしたら大変だということでした。森先生が何を教えられていたのか、もしかしたら、どれほど真剣に出席していたのかすら、ほとんど記憶に残っていないのです。

しかし、森先生のクラスで学んだことで、今も鮮明に記憶に残っていることが一つだけあります。それは手の指(もしかしたら足の指も)を使って示す2進法です。それは、雑談だったような気がするのですが、まず両手を握って、右手の親指だけを立てる。これが1です。これに1を足すと、親指を引っ込め、人差し指を立てる。つまり、人差し指と親指は10の状態となる。10進法の2は、2進法では10です。これに1を足すと、人差し指も親指も立った状態になる。つまり、10進法の3は、2進法では11です。これに1を足すと、人差し指も親指も引っ込め、中指だけを立てる。つまり、10進法の4は、2進法では100です。10進法の5は、2進法では101で、中指と親指を立てた状態です。10進法の6は、2進法では110で、中指と人差し指を立てた状態です。10進法の7は、2進法では111で、中指と人差し指と親指を立てた状態です。10進法の8は、2進法では1000で、薬指だけを立てた状態です。2の乗数は指をどれか一本だけ立てた状態です。ですから、10進法の16は、2進法では10000で、小指だけを立てた状態です。10進法の31は、2進法では11111で、右手の指5本すべてを立てた状態です。10進法の32は、2進法では100000ですから、右手だけでは足りません。右手の指はすべて引っ込め、左手の小指だけを立てた状態です。

これを延々と続ける。「この整然とした美しさ、これは哲学だ!」と思いました。あまりに感激したので、これをその当時つきあっていた彼女(現在の妻)に喫茶店で、両手を使って実演してみたら、そんなバカなことを真剣な顔をしてやっている私を気味悪がったのか、単に私をあまりにもバカだと思ったのか、完全に怒らせてしまいました。きっと、彼女の家族や友人にはそうしたバカげことを真剣に、興奮して話す人なんていなかったのでしょう。

森先生には、風変わりな噂が流れたりしていました。たとえば「80点とか、85点とか、90点とか書き込んだ紙を階段の異なる段に置いておいて、階段の上からテストをパラパラ落としてみて、その落ちた場所に書いてある点数で、成績が決定する」といったまことしやかな噂が流れていました。実際に、クラスを取ってみて、成績はそうした形では決まっていませんでしたが、たしかに風変わりではあったのだと思います。

かなり以前で曖昧な記憶なんですが、もし記憶が確かなら、レポート提出が2回あって、2回とも提出したら82点、どちらか1回提出したら81点、何も提出しなかったら80点、つまりレポートは各1点だったような気がします。最低と最高の点差が2点なんです。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論だったそうですが、森先生をテレビで拝見するたびに、森先生のクラスを思い出し、懐かしく感じていました。合掌。

2010年7月14日水曜日

サンフランシスコの夏

サンフランシスコの夏は寒いです。『トム•ソーヤーの冒険』を書いたマーク•トウェインが「人生の中で過ごした一番寒い冬は夏のサンフランシスコだった(The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco)」と語ったという言い伝えまであるくらいです。神戸大学で特別集中講義をして、国立国語研究所で招待講演をして、サンフランシスコに帰ってきてから1ヶ月になります。神戸と東京ではたくさんの刺激をもらいました。自分でコントロールしてゆかねばならない仕事なので、のんびりしていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。「新しい本を書きたい」という思いがわき上がってはいるのですが、「さて、どのような手段で」というところで立ち止まってしまいます。文筆業の人間って誰でもそうなのでしょうか。ここで思うのですが、「やはり出版社から声をかけていただく」か「こちらから企画を持ち込む」しかないのだろうな、と考えている今日この頃です。売れる本、つまりたくさんの人に読んでもらえる本をかきたいという思いが、本を出版するごとに強くなっていきます。ところで、twitterも書いていますので、見てください。

2010年5月27日木曜日

言語学出版社フォーラムとSPYSEEととWikipedia

言語学出版社フォーラム』のために書いておいた「規範文法のみで教えることが正しいのか」というエッセイが2010年4月2日に掲載されているのに、てっきり2010年2月5日に掲載された「若者ことばと日本語学習者の言語表現」と取り違えていた、というか新しいエッセイの掲載に気がついていませんでした。最近SPYSEE(スパイシー)という人物検索にも、出ているのを発見しました。Wikipedia(ウイキペディア)も便利ですし、スパイシーも人のネットワークを知る上で便利です。それから、『言語と文化』が「言語と文化ランキング(人気)』でついに一位になりました!!!

2010年5月20日木曜日

「対照言語学若手の会」参考図書に指定される!

麗澤大学で「対 照言語学若手の会」という学会が開催されるそうです。そこに参考図書のリストがあるのですが、拙著『言語と文化』も含まれています。私はまだまだ学会で発表したい人なので、「自分はまだまだ若いぞ」って思っている、もしくは、そう信じたいのですが、こうして参考図書のリストに指定されているところを見ると、実際には、そうでもないのかもしれません。でも、こうして認めていただけることはとてもうれしいです。これで、拙著を読んでくれる人が1人でも、2人でも増えてくれて、こうした分野の言語学に興味を持ってくれる人が出てくることを願っています。主催者の皆さん、ありがとうございます。スピーカーに私を呼んでください!

2010年4月28日水曜日

カスタマーレビュー

文学賞』というウエブサイトがあります。
そこに『言語と文化』が出ているのですが、アマゾンにつながっていて、猫だるまさんが書いた『言語と文化』のレビューを見つけました!猫だるまさん、ありがとうございます。

目次を見てもらうとわかるのだけれど、”言語”についての考察は広範。
概念からはじまり、言語ごとの比較、ニュアンスによる言葉の伝わり方におよんでいる。

なので、どんな本か、簡単に説明するのが難しいので、本書の概要からこの本の内容をまとめると、 “コミュニケーションの様々な様相に関わってくる言語を、説話(ディスコース)レベルで分析する。具体的には、
言語の普遍性(一章)
「異なる言語を話すものは、その言語の相違ゆえに異なった思考をする」(二章)
コミュニケーション=やりとりにおけるフォーマット、もしくはパターンに言及した(三章)
社会言語学的(四章)”
だと思う。

たしかに堅い本でもあるのだけれど、引用が豊富で的を射ているのでおもしろい。
四章の203Pから始まる、”バカvsアホ”は誰が読んでもたのしめるんじゃないかな。
著者によればアホとは、「ちょっと常識はずれで感覚はずれているが、心の優しい人」となる。

つづきは、読んでみて!

2010年3月5日金曜日

『言語と文化』の反響:ついにベストセラーのコーナーに並んだ!!



紀伊国屋書店サンフランシスコ店にSさんという人がいて、私の本などを担当してくれているのですが、かなりユニークな人です。紀伊国屋書店では、「新刊台やベストセラーのコーナーだけではなく店全体の棚の見直しを月に一回は行なっていますので3月いっぱい『言語と文化』をベストセラーのコーナーに置かせて頂きます」ということで、さっそく行ってきました。Sさんには「もしかしたら私を南先生のパーソナル営業マンとして雇って下さった方が効率がい
いかも知れません♪」と言われました。私の本が「小川洋子」の本と「桐野夏生」の本に挟まれて並んでいる!感激です!

2010年2月20日土曜日

『言語と文化』の反響2

次のようなメッセージをいただきました。

私が申し上げるのも僭越ですが、先生のお書きになる文章は日本語でも英語でも整然明瞭にまとめられているため、とても読 みやすく(内容が簡単だ、という意味ではありません)、先生のサービス精神の表れとでも申しましょうか、読者へのやさしさにあふれていると感じました。逆に言えば、先生のご研究をより多くの人に明確に理解してもらいたいという先生の情熱の発露なのでしょう。感銘を受けました。

じつは、ずいぶん以前になりますが、私は教師としての生活を高校の英語教師としてスタートしました。そのときに一人の女生徒から「先生の授業はわかりやすいからつまらない。その点、〜先生の授業は難しいからかっこいい」と言われ驚いたことがあります。
でもこのスタイルを変えようと思ったことはなく、現在の大学に来る前はマサチューセッツ州立大学の心理学部で教えていましたが、 research methodを教えていた際に「学生のレベルまで下がって来て教えてくれるので、わかりやすい」と言われ、感銘を受けました。

2010年2月17日水曜日

『言語と文化』の反響

最近、出版社フォーラムというサイトにも、エッセイが出ていますので、見てください(ここに出るのは2回目なんですが)。
http://www.gengosf.com/

先日、拙著『言語と文化』の書評が大修館『英語教育』2010年3月号に出ていることを偶然知りました。

http://online.sfsu.edu/~mminami/Review.pdf/

東京大学の林徹先生が書評を書いてくださったということにも感激しました。こうした書評は、ふつうでしたら、旧知の誰かに好意的に書いてもらう性格のものなのが、まったく面識のない東大の林先生に非常に好意的な書評を書いていただき、なおいっそう感激し、興奮したのだと思います。本というのは、本当に「一人歩きするものなん だ」と実感すると同時に、私の思い・考えを理解していただけることに興奮しました。今回の書き方は従来のスタイルとは異なり、「語り」に集中しました。この書評の中では「饒舌」と書かれているんですが、私の意図した通りでしたので、とりわけうれしく思いました。

これまで日本語と英語の出版 を交互にしてきて、それを妻と私は「山口百恵」方式(異なるタイプの作品を出すことで長生きさせる)だと笑っています。日本語では、『言語学と日本語教 育』シリーズを出版しているのですが、いつも悩まされているのが販売部数の問題です。それで今回「爆発的に売れるものを書いてみせる」と大見得を切って取 り組んだものですから、こうした「語り」のスタイルにしています。「爆発的とはいかない」と、先日、出版社の担当者とに電話で話した際に言われましたが [笑]。