2010年8月25日水曜日

マイケル・アマコストとマッシー・ムラカミのこと

8月23日の夜、『咸臨丸150周年記念事業』の一環としての日系人グラスルーツ・サミットということで、急遽、在サンフランシスコ日本国総領事館の総領事公邸に呼ばれまして、そこで元駐日大使のマイケル・アマコスト氏と再会しました。アマコスト氏は1989年から1993年まで在日本アメリカ合衆国特命全権大使だった人です。以前、総領事公邸でアマコスト氏にお会いしたことがあるのですが、そのときは着席パーティーで横に座ることになりまして、前日から詰め込んであった知識もさほど役にはたたず、かなり緊張しました。今回は2度目ということもあり、前回のような緊張感はなく、わりとリラックスしてまるで旧知の間柄のような態度で話しかけたら気さくに対応してくれました。

感激だったのは、アメリカのメジャーリーグ日本人選手のパイオニアで、サンフランシスコ・ジャイアンツのピッチャーだった村上雅則氏(マッシー・ムラカミ)がいらっしゃっていて、お話しできたことです。メジャーリーグのパイオニアと言えば野茂英雄と思いがちなのですが、村上氏は1964年頃に当時の南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーのフレズノに野球留学していて、メジャーリ−グに初めて昇格した人です。当時、私は小学生で記憶が定かではないかもしれないのですが、その後、南海ホークスが「帰国するように」と命じたことからゴタゴタもあったようです。
そうしたことが、当時の新聞などで報道されていたのですが、その村上氏に会ってお話しできたものですから感激でした。私が一方的にしゃべってはいましたが、それを丁寧に聞いてくださり、私の素人丸出しの質問にもちゃんと答えてくださいました。

実は、私もハーバード大学の大学院に入学した際の最初のセミナーで、自分の名前を「マッシー・ミナミ」と書いたのですが、そのセミナーの教官で、後に私のアドバイザーになった人が、以前から私の名前を知っていたようで、マサヒコと呼んだのです。もしそのとき私が「マッシー・ミナミ」になっていたら、その後の私の著作、少なくとも英語の著作はMsahiko MinamiではなくMashi Minamiになっていたかもしれません。

If I had been called "Mashi" by that influential professor at that time, my books, at least English ones, might have been published with the name of "Mashi Minami" instead of "Masahiko Minami."

2010年8月21日土曜日

ロジャー・クレメンスのこと

通算354勝にして史上最多の7度のサイヤング賞を獲得し、Rod Sox、Blue Jays、Yankees、Astosで活躍したロジャー・クレメンスが、米連邦大陪審から起訴されました。1997年からの薬物使用らしいのですが、1997年というのはクレメンスが、ボストンからトロントに移籍した年です。1996年頃というのは、クレメンスだけでなく、(その後、阪神に行ってすぐやめた)マイク・グリーンウエルやモー・ボーンと不平・不満分子がたくさんいて、まだ若かった当時のボストンのダン・デュケットGM(ゼネラルマネージャー)は、彼らの扱いに手を焼いていました。私は当時ボストンに住んでいましたので、そうした状況を今でも覚えています。デュケットは、10勝そこそこしか勝てなくなったクレメンスを評して「たそがれ時(twilight)」つまり「全盛期を過ぎた」と言っていました。

ボストンのマスコミは、それまでクレメンスが「出身地のテキサスに帰りたい」といっていましたので、FAでトロントに行ったときには「(カナダの)トロントがボストンよりテキサスに近いとは?」と揶揄していました。でも、クレメンスがトロントで活躍するたび、デュケットGMの発言は皮肉られることになり、「見る目がなかった」とマスコミからはバカにされていたように記憶しています。最終的にはデュケットの進退問題にまで発展したと思いますが、そうした活躍には裏があったとしたら皮肉です。

いずれにせよ、トロントでも、かつてのライバルでオークランドA'sの投手だったスチュアートが投手コーチになった途端に、移籍を要求したわけで、信じられないほどの大きなエゴとプライドの持ち主だったのではないでしょうか。

思い起こせば、私がボストンに到着したのは1987年の8月で、その年は前年ワールドシリーズにまで出場しメッツに最終戦で負けはしたものの最後までボストンを湧かせていたのでしょうね。1987年の8月17日は、夜遅くケンブリッジに到着しました。ローガン空港からタクシーで、ハッチシェルを横目に見ながらホテルに着いたのですが、テレビをつけたらたまたまスポーツニュースで、「ことしのレッドソックスはだめ」なんて言っていました。

翌年の初夏、初めてフェンウエイ・パークに試合を見に行きましたが、たしか対戦相手はブルージェイズだったと思いますが、ぼろぼろに負けました。その後、阪神に行ったセシル’フィールダーもいたはずですが、控えだったと思います。その時のレッドソックスの監督はジョン・マクナマラ(John McNamara)でしたが、その後すぐくびになり、
ジョー・モーガン(Joe Morgan)が監督に昇格しました。この監督はすばらしい実績を残したと思いますが、どういうわけかくびになり、ブッチ・ホブソン(Butch Hobson)を監督に昇格させた1992年には、阪神が1985年に日本一になったときのピッチャーのリッチ・ゲールが投手コーチになりました。

クレメンスを実際に球場で見たのはその頃です。それまで何度もフェンウエイで試合を観ていましたが、クレメンスを見る機会がなかったんです。試合前にゲールとクレメンスが外野をランニングしていまして、クレメンスも大男のはずなのに、ゲールがとても背が高くて、遠くからでも身長差が歴然としていました。その後も、クレメンスが投げるのを見たことはありますが、それほどすばらしかったという記憶はありません。それよりも、何かの記念で、テッド・ウイリアムス(Ted Williams)が球場に来ていてスピーチをしたことがありましたが、やはり印象的でした。

2010年7月27日火曜日

森毅先生のこと

2010年7月24日に森毅先生がお亡くなりになったとのこと、お悔やみ申し上げます。私は京都大学経済学部卒業なのですが、教養部の時に森先生のクラスを取りました。「京大時代は名物教授の一人として人気を博した」というのが一般的な解釈なのでしょうし、まったくその通りだったと思います。

教養部の1回生、もしかしたら2回生のときも(関西では1回生、2回生と数えていました)、数理解析研究所の教授だった一松信先生からも解析学、函数論を学びました。偏微分はまだなんとかこなしましたが、ベクトル解析はよくわかりませんでした。すみません。

対照的に、森先生から何を学んだのか、それほどの記憶がないんです。一松先生の授業にはまじめに出席していましたし、まじめに出席していても理解できないのに、欠席でもしたら大変だということでした。森先生が何を教えられていたのか、もしかしたら、どれほど真剣に出席していたのかすら、ほとんど記憶に残っていないのです。

しかし、森先生のクラスで学んだことで、今も鮮明に記憶に残っていることが一つだけあります。それは手の指(もしかしたら足の指も)を使って示す2進法です。それは、雑談だったような気がするのですが、まず両手を握って、右手の親指だけを立てる。これが1です。これに1を足すと、親指を引っ込め、人差し指を立てる。つまり、人差し指と親指は10の状態となる。10進法の2は、2進法では10です。これに1を足すと、人差し指も親指も立った状態になる。つまり、10進法の3は、2進法では11です。これに1を足すと、人差し指も親指も引っ込め、中指だけを立てる。つまり、10進法の4は、2進法では100です。10進法の5は、2進法では101で、中指と親指を立てた状態です。10進法の6は、2進法では110で、中指と人差し指を立てた状態です。10進法の7は、2進法では111で、中指と人差し指と親指を立てた状態です。10進法の8は、2進法では1000で、薬指だけを立てた状態です。2の乗数は指をどれか一本だけ立てた状態です。ですから、10進法の16は、2進法では10000で、小指だけを立てた状態です。10進法の31は、2進法では11111で、右手の指5本すべてを立てた状態です。10進法の32は、2進法では100000ですから、右手だけでは足りません。右手の指はすべて引っ込め、左手の小指だけを立てた状態です。

これを延々と続ける。「この整然とした美しさ、これは哲学だ!」と思いました。あまりに感激したので、これをその当時つきあっていた彼女(現在の妻)に喫茶店で、両手を使って実演してみたら、そんなバカなことを真剣な顔をしてやっている私を気味悪がったのか、単に私をあまりにもバカだと思ったのか、完全に怒らせてしまいました。きっと、彼女の家族や友人にはそうしたバカげことを真剣に、興奮して話す人なんていなかったのでしょう。

森先生には、風変わりな噂が流れたりしていました。たとえば「80点とか、85点とか、90点とか書き込んだ紙を階段の異なる段に置いておいて、階段の上からテストをパラパラ落としてみて、その落ちた場所に書いてある点数で、成績が決定する」といったまことしやかな噂が流れていました。実際に、クラスを取ってみて、成績はそうした形では決まっていませんでしたが、たしかに風変わりではあったのだと思います。

かなり以前で曖昧な記憶なんですが、もし記憶が確かなら、レポート提出が2回あって、2回とも提出したら82点、どちらか1回提出したら81点、何も提出しなかったら80点、つまりレポートは各1点だったような気がします。最低と最高の点差が2点なんです。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論だったそうですが、森先生をテレビで拝見するたびに、森先生のクラスを思い出し、懐かしく感じていました。合掌。

2010年7月14日水曜日

サンフランシスコの夏

サンフランシスコの夏は寒いです。『トム•ソーヤーの冒険』を書いたマーク•トウェインが「人生の中で過ごした一番寒い冬は夏のサンフランシスコだった(The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco)」と語ったという言い伝えまであるくらいです。神戸大学で特別集中講義をして、国立国語研究所で招待講演をして、サンフランシスコに帰ってきてから1ヶ月になります。神戸と東京ではたくさんの刺激をもらいました。自分でコントロールしてゆかねばならない仕事なので、のんびりしていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。「新しい本を書きたい」という思いがわき上がってはいるのですが、「さて、どのような手段で」というところで立ち止まってしまいます。文筆業の人間って誰でもそうなのでしょうか。ここで思うのですが、「やはり出版社から声をかけていただく」か「こちらから企画を持ち込む」しかないのだろうな、と考えている今日この頃です。売れる本、つまりたくさんの人に読んでもらえる本をかきたいという思いが、本を出版するごとに強くなっていきます。ところで、twitterも書いていますので、見てください。

2010年5月27日木曜日

言語学出版社フォーラムとSPYSEEととWikipedia

言語学出版社フォーラム』のために書いておいた「規範文法のみで教えることが正しいのか」というエッセイが2010年4月2日に掲載されているのに、てっきり2010年2月5日に掲載された「若者ことばと日本語学習者の言語表現」と取り違えていた、というか新しいエッセイの掲載に気がついていませんでした。最近SPYSEE(スパイシー)という人物検索にも、出ているのを発見しました。Wikipedia(ウイキペディア)も便利ですし、スパイシーも人のネットワークを知る上で便利です。それから、『言語と文化』が「言語と文化ランキング(人気)』でついに一位になりました!!!

2010年5月20日木曜日

「対照言語学若手の会」参考図書に指定される!

麗澤大学で「対 照言語学若手の会」という学会が開催されるそうです。そこに参考図書のリストがあるのですが、拙著『言語と文化』も含まれています。私はまだまだ学会で発表したい人なので、「自分はまだまだ若いぞ」って思っている、もしくは、そう信じたいのですが、こうして参考図書のリストに指定されているところを見ると、実際には、そうでもないのかもしれません。でも、こうして認めていただけることはとてもうれしいです。これで、拙著を読んでくれる人が1人でも、2人でも増えてくれて、こうした分野の言語学に興味を持ってくれる人が出てくることを願っています。主催者の皆さん、ありがとうございます。スピーカーに私を呼んでください!

2010年4月28日水曜日

カスタマーレビュー

文学賞』というウエブサイトがあります。
そこに『言語と文化』が出ているのですが、アマゾンにつながっていて、猫だるまさんが書いた『言語と文化』のレビューを見つけました!猫だるまさん、ありがとうございます。

目次を見てもらうとわかるのだけれど、”言語”についての考察は広範。
概念からはじまり、言語ごとの比較、ニュアンスによる言葉の伝わり方におよんでいる。

なので、どんな本か、簡単に説明するのが難しいので、本書の概要からこの本の内容をまとめると、 “コミュニケーションの様々な様相に関わってくる言語を、説話(ディスコース)レベルで分析する。具体的には、
言語の普遍性(一章)
「異なる言語を話すものは、その言語の相違ゆえに異なった思考をする」(二章)
コミュニケーション=やりとりにおけるフォーマット、もしくはパターンに言及した(三章)
社会言語学的(四章)”
だと思う。

たしかに堅い本でもあるのだけれど、引用が豊富で的を射ているのでおもしろい。
四章の203Pから始まる、”バカvsアホ”は誰が読んでもたのしめるんじゃないかな。
著者によればアホとは、「ちょっと常識はずれで感覚はずれているが、心の優しい人」となる。

つづきは、読んでみて!